「斗南藩の歴史」(3)西郷頼母の史料

八戸市の神達也氏
八戸市の神達也氏

神達也さん(八戸市)の先祖は、将軍徳川家康の血をひく会津藩筆頭家老西郷頼母であることが判明しました。また、神さんが所持する「西郷頼母に宛てた広澤安任の手紙」「講道館の四天王であった西郷四郎の死亡を知らせたハガキ」「西郷頼母の写真」「十和田市にある頼母の墓」などを紹介します。  

 

              斗南藩歴史研究会 山本光一

 

神達也さんとの出会い

 

 三戸大神宮の禰宜をしているという坂本さんが、三戸大神宮敷地内にある会津藩の藩校日新館教授・杉原凱先生の墓の件で来訪されたとき「十和田市の江渡聡徳衆議院議員が西郷頼母の子孫らしい、関連する手紙なども残っているという話しだ」という情報を聞きました。早速アポイントをとっていただき江渡さんの話しを聞くことができました。「西郷頼母の子孫ということは聞いていたが、詳しいことは親戚の神達也さんが一番良く知っているし、史料もお持ちしていますよ」とのことで八戸市にある神さんの自宅を訪問しました。快くお会いして下さった神さんの自宅で大変貴重な史料をたくさん見せていただきました。

西郷頼母の写真 神達也氏 蔵
西郷頼母の写真 神達也氏 蔵

1.保科近悳(ほしなちかのり・西郷頼母の別名)の写真。

2.広澤安任から保科近悳へ宛てた手紙。

3.西郷四郎(姿三四郎のモデルになった人物)の死亡を知らせたハガキ。

4.立川家の除籍謄本(頼母の末弟)。

 また、神さんには十和田市教育委員会や、頼母の墓があるという立川家の墓にも同行していただきました。これらのことで知り得たことを皆さんに紹介します。斗南藩の歴史が風化しない前に、少しでも史実を後世に伝えたいという思うからです。

 

悲運の運命をたどった斗南藩

 

 幕末から明治維新への一大転換期、会津藩は「公武一和」を旨としながらも、無念にも逆賊朝敵の汚名を着せられ、悲運をたどりました。その中で神達也さんの祖先西郷一家は頼母と長男吉十郎有隣を残し、母、妻、娘5人、妹2人の9人が一族12人とともに西郷邸で壮烈自刃を遂げました。

 紅顔の白虎隊19人は飯盛山で果てたのです。頼母父子は君命により城を脱出しました。最後の戦地函館の五稜郭の戦い後、新政府により幽閉されます。

 戊辰戦争が終結し、会津藩は現青森県内に斗南藩として移住しました。1万7千人もの藩士が陸路・海路を新天地を求め移動を開始したのです。幽閉を解かれた保科近悳(頼母)もその中にいました。

 

西郷四郎の死亡を知らせるハガキ 神達也氏 蔵
西郷四郎の死亡を知らせるハガキ 神達也氏 蔵

多くの人材を世に出す

 

 斗南藩は現在の三戸郡・十和田市・三沢市・下北半島のむつ市に飛地でありました。藩士達は慣れない農業や、食うや食わずの生活を強いられ、親戚を頼って帰郷する人が多くみられました。そして廃藩置県で1年8ケ月をもって終止符を打つことになります。

 そして、残留した藩士の中から多くの素晴らしい人材が生まれました。特に日新館教育で学んだ教育は、青森県の政界・教育界に大きな貢献をすることになりました。また、武術の優れている多くの藩士は警察官として採用されました。近年の政界では、神田八戸市長、北村県知事、現在では十和田市選出・江渡聡徳衆議院議員、前杉山むつ市長、前鈴木三沢市長、現小林八戸市長なども会津の血縁のある方々です。

 

立川家の除籍謄本

 

 神達也さんから、見せていただいた立川家の謄本によると、立川一䖝(たちかわいっき)は、西郷頼の末弟「安之進」であることがわかりました。また、西郷頼母と養子四郎が住まいしていた十和田市の住所。四郎が立川家から養女をもらった記録があることが発見された。西郷頼母の晩年「祖先碑文」と題する直筆で、自分が死亡した場合の連絡先などを記したものに見つかっています。その9番目に「立川一䖝。是ハ我弟、元西郷安之進」とありました。同時に遺品の中から「御兄上様」とした頼母宛の立川一䖝差し出しの手紙4通も確認されています。

立川一䖝の妻が死亡したときの親族の写真 神達也氏 蔵
立川一䖝の妻が死亡したときの親族の写真 神達也氏 蔵
立川一䖝  
立川一䖝  

立川家の除籍簿によると、立川家の「よし江」は、明治20年9月29日に、十和田市の伝法寺村16番地42号 保科近悳(西郷頼母)・保科四郎(西郷四郎)の住所に四郎養女となり同居している。

 

 神達也さんの父、有(たたす)さんは、立川一䖝(安之進)の二男として生まれ、津軽の有筆(文章や記録を書く職)だった神家の養子となりました。有さんは東北町乙供の郵便局長をなさった方です。その有さんの長男鼎司(ていじ)さんは郵便局を継ぎました。達也さんは二男として生まれ、長年青森鉄工連協同組合に専務理事として勤務していました。大正11年6月9日生まれの89歳です。

西郷頼母近悳の墓といわれている立川家の墓の裏
西郷頼母近悳の墓といわれている立川家の墓の裏

 

立川家の墓

 

 現在は、立川家の親族は十和田市にはおらず、達也さんは立川家の藤島にあるお墓の管理を亡くなった兄から頼まれていたそうです。達也さんはこの墓に西郷頼母が眠っていると聞いています。(分骨したのかも知れない)

 墓は当時の世相から西郷頼母の名は出さない方がいいだろうということで、立川家の墓の裏に隠れるように刻まれています。(西郷という字と近悳という字が見えます)戊辰戦争後は、明治政府の命令で数年間死者の墓も建てることが出来なかった時代だったからです。

 日本で最初の隊士の名が刻まれた「白虎隊」の墓も、明治4年1月13日に三戸町の観福寺に会津藩士大竹秀蔵の手によって密かに建てられています。

親族の林瑞子さん調査の図
親族の林瑞子さん調査の図
十和田市の平成14年1月18日の除籍簿 神達也氏 蔵
十和田市の平成14年1月18日の除籍簿 神達也氏 蔵
会津若松市の除籍謄本 神達也氏 蔵
会津若松市の除籍謄本 神達也氏 蔵