斗南藩の歴史(9)松平容大公の木馬

容大名義の御礼と激励の文書 会津斗南藩資料館「向陽処」蔵
容大名義の御礼と激励の文書 会津斗南藩資料館「向陽処」蔵

      斗南藩歴史研究会 山本光一

 

松平慶三郎藩主となる
 
 戊辰戦争で敗北した、23万石の会津藩(藩主・松平容保)は、会津落城後、主な家臣と共に東京へ出て謹慎(父子永禁固、領地没収の処罰)となった。
 朝廷は会津藩の京都守護職当時の功績を思召されて落城1年後に罪を許すと共に3万石を賜うとの内意があった。明治3年、山川浩(斗南藩・権大参事)は、4千戸の旧家臣一統を扶養することを第一義とし、斗南藩として現在の青森県に移住することとした。
 松平容保公の長男慶三郎に3万石を賜うとの御沙汰があり、明治3年4月黒羽藩から斗南藩へ引き継がれた。
 その斗南へ移住した者およそ2千8百戸。慶三郎は明治2年の誕生、歳僅か2歳ながら元服して容大(かたはる)と名を改め、家名を継ぎ、権大参事・山川浩、小参事・倉沢平治右衛門等の協力によって藩政を行なった。藩庁は始め五戸に置かれたが、明治4年2月むつの田名部に移った。藩主容大はこの時3歳であった。
 同年8月、廃藩置県によって田名部を引き揚げる事になった。
 その引き揚げのときに、容大名義の御礼と激励の文書を発せられた。この文書は松平容保がつくったとされ、容大名義の御礼と激励の文書が発せられた。その原文を紹介する。

文書内容

 「此の度、余ら東京へ召され、永々汝等と難苦を共にすることを得ざるは、情に於いて堪え難く候へども、公儀の思召在所止むを得ざる所に候。これまで戝齢をもって重き職を奉じ、遂にお咎めもこうむらざるは畢竟汝等艱苦に堪えて奮励せしが故と歓喜この事に候。
 此末益々御趣旨に従い奉り、各身を労し、心を苦しめ、天地罔極の恩沢に報じ奉り候儀余が望むところ也」
 と布達され、八戸より東京に向かわれたと記録されている。
 藩士たちも、それぞれに伝手を頼りに若松へ、東京へ、北海道へと各地に旅立ったのである。

松平容大公 三沢市先人記念館 写真提供
松平容大公 三沢市先人記念館 写真提供

松平容大(十一代)

 明治3年(1870年)1月、戊辰戦争の処罰として命じられていた藩士の謹慎を解かれた。同年5月15日、版籍奉還により、藩知事に就任した。また、従五位を与えられた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により、斗南藩は斗南県となり、容大は藩知事を免じられた。
 明治17年(1884年)7月、子爵を授けられる。明治26年(1893年)、早稲田専門学校行政科を卒業。明治28年(1895年)、陸軍に入り、少尉に任官した。後に騎兵大尉まで累進した。明治35年10月、家計窮迫のため、明治天皇から現金を支給される。明治39年(1906年)3月、貴族院議員に選ばれて、死亡するまで在任した。

【参考文献】
「会津藩士銘々伝」「倉澤、大庭」    
    伊藤 哲也 著
「流れる五戸川」    三浦 栄一 編
「倉澤」    伊藤 哲也 著

 

容大公の写真

 この写真は、三沢市の先人記念館にあった。廣澤家の所持していた写真で、許可をいただき掲載にこぎつけた。記念館の学芸員・堀内彩子さんの話しでは、おそらく初公開の写真掲載になるだろうということだった。
 写真に撮影時期が記載になっていないのではっきりしないが、廣澤安任が同時期に容保公より手渡しで容保公の写真をいただいていることから、3歳から4歳ぐらいの、明治5年前後の写真ではないかと思われる。

松平容大公(写真 裏)三沢市先人記念館  写真提供  広澤安任が所持していた写真らしい。
松平容大公(写真 裏)三沢市先人記念館 写真提供 広澤安任が所持していた写真らしい。

容大公の愛玩した
    木馬が見つかる

 平成22年2月6日、容大公が遊んだ木馬が十和田市にあるというので、斗南藩の歴史研究会・大庭紀元さん、三沢市先人記念館学芸員・堀内彩子さん(左下写真)ら5名が調査をさせていただいた。
 木馬は、高さ一メートル十五センチ、長さ一メートル十七センチで、ケヤキの木で造られていた。木馬の表面は馬(?)の毛皮を貼った跡があり、まだ少し毛が残っていた。両耳部分は無くなっていた。台座の裏には、東都(東京)本墅・阪藤三次郎作と墨書で記してあった。東京で制作され運ばれてきたと思われる。容大公はこの木馬の背に乗り遊んだものといわれている。この木馬は、当初東京へ去る際に野辺地の八幡宮に奉納されたものという。
 しかし、八幡宮の社殿が積雪で潰れそうになり、緊急に補修工事が必要となったが、寄付金集めが困難であったところから、この木馬を野辺地八幡宮・宮司、氏子総代・熊谷達氏らで相談し容大公の木馬を売って工事費にあてることとした。
 氏子代表の皆さんの強い勧めもあり、株式会社佐川組(代表取締役・佐川由三郎氏)が購入した。
 その時の木馬の状況は、会津若松の催しものに貸出されて返却されたまま木箱に入っており、送り主は「天守閣保存会」と書いてあったという。この木馬をガラスケースに入れ十和田市の事務所に置いたところ、斗南にゆかりのある方が頻繁に訪れた。
 当時のことを知っている高齢の方の中には涙を流す人もいたという。その後、青森県の郷土館の会津関係の催しなどにも貸出したことがある。
 斗南藩という短命の藩ではあったが、青森県における斗南の末裔の皆さんは、教育・行政の大きな力となった。この「木馬」は、そういう斗南の人たちの象徴で希望であった容大公の形見でもある。そして、斗南の人のみならず歴史的にも時代が大きく変わった時期の大変貴重な証拠品でもある。
 木馬の所有者は東京在住。現在、十和田市の佐々木さんが保管している。 傷みがすすんでおり、早急に保存環境のととのった場所に収まることが望まれる。

 

【写真】

容大公が三歳のとき遊んだという木馬
後ろ左:斗南藩の歴史研究会副会長 大庭紀元さん
      右:三沢市先人記念館 学芸員 堀内彩子さん